負けることを、どうして「敗北」と書くのだろう。
ずっと引っかかっていた。古事記でも日本書紀でも、負けた側はなぜか北へ行く。長髄彦(ながすねひこ)も、物部(もののべ)も、東北へ逃げたという伝承がついてまわる。負けると北。だから敗北なのではないか。
そんなことを考えていた時期に、秋田へ行くことになった。
わたしは岩手の内陸で育った。秋田は隣の県だ。それなのに、一度も行ったことがなかった。あいだに奥羽山脈があって、車でも越えにくい。向こうに親戚がいるわけでもない。行く機会が、一度もなかった。
『秋田物部文書』を読んで、物部を知りたくなった
秋田に興味を持ったきっかけは、土地ではなく一冊の本だった。
進藤孝一『秋田「物部文書」伝承』(無明舎出版・1984年)。帯には「門外不出の書を解読する」とある。

大仙市の唐松神社の宮司家に、一子相伝で伝わってきたとされる文書を扱っている。文書があるという噂は戦前からあったが、長く公開されなかった。それが1984年、物部長照 名誉宮司の「英断」で世に出た——と版元の紹介にある。
書かれていることは、古事記や日本書紀とはずいぶん違う。神武天皇の大和入りより前に、物部氏の祖神である饒速日命(にぎはやひのみこと)が鳥見山(とみやま)に降臨したと伝える。この鳥見山を鳥海山のことだと読むのが、この文書の立場だ。そして日殿山(唐松岳)に「日の宮」を建てて住んだ、と。
いわゆる偽書として扱われることの多い文書だ。それは承知している。ただ、全面が公開されていないので、真偽を検証する土台そのものが無い、という状態でもある。
わたしの側の勝手な見立てはこうだった。負けた物部氏は、北へ「逃げた」のではなく、もともと縁のある場所へ戻って、中央から離れたところで力を蓄えていたのではないか。そして「敗北」という言葉そのものも、この人たちの移動が元になっているのではないか。
本を書いたのが、その血を引くと伝わる宮司その人だという事実も、妙に頭に残っていた。真実というのは、意外な形で隠されるものかもしれない、と。
そう思っていた矢先に、由利本荘市への出張が決まった。由利本荘市の食のイベントに関わっていて、その下見のための出張だった。市のまるごと売り込み課の方が案内してくれた。唐松神社は時間があれば行きたい。そう思いながら、まずは仕事の行程をこなすことになった。2025年の3月だった。
清吉そばやの主役は、そばではなかった
最初に、地元の人の案内で入ったのが清吉そばやだった。羽後本荘駅から1キロほどの市街地にある。
看板には「そば」とある。ところが壁の一枚板に下がる木札のお品書きは、いちばん端が「中華」で、640円。そばもうどんも並んでいるのに、中華そばがはっきりと主役の顔をしている。

澄んだ醤油のつゆに細めの麺。のっているのはチャーシューではなく、煮込んだ親鳥だった。由利本荘市の公式サイトは、親鳥の中華そばをこの市のソウルフードだと書いている。
もうひとつ、小鉢がついてきた。天かすだった。地元の人が、この天かすの上からラー油をたっぷりかけるのだと教えてくれた。ピリ辛の味になる。

朝からラーメンを食べる習慣があることも、そのとき聞いた。深夜3時に開く本荘朝市が、その始まりだという。山形の酒田にもあった。鳥海山を挟んで南と北、ここだけの文化かと思ったが、調べると朝ラーは全国にあった。そこは、あっさり外れた。
地元の人が食べているものを同じように食べると、その土地に入った感じがする。
ホテルアイリスの一階に、美術館が隠れていた
泊まったのはホテルアイリス。市街の肴町にある。
一階に展示スペースがある。ギャラリー樹林(じゅりん)という。公式サイトの説明は一行だけだ。「美しい自然を背景として伝統に育まれた地域の文化を展示し、地域の文化を発信しております」。
金箔の菩薩像が立っていて、その左右を、仁王が挟んでいる。奥には武装した天部の像が並ぶ。台座の札に広目天、持国天とある。龍と虎の屏風、工芸品、掛軸。


驚いたのは距離だった。赤い毛氈(もうせん)の上に、真鍮のポールとロープ一本で囲ってあるだけ。ガラス越しではない。仁王の足の指の形まで見える。こんなに近くで見ていいのだろうか、と思った。
誰のコレクションで、なぜここにあるのか。公式サイトも観光協会のページも見たが、わたしには見つけられなかった。現地で聞いておけばよかった、といまだに思っている。
ただ、分からないままでも困らなかった。これだけのものを、宿の一階で、好きなだけ見ていられる。そして、こういうものが暮らしの場に置かれていること自体に、この土地の信仰の深さと、その近さを感じた。
赤田の大仏は、鎌倉とつながっていた
秋田にも長谷寺がある。そう教えられて、翌日連れて行ってもらったのが、赤田の大仏だった。わざわざ行程に入れてくれたのだから、見せたい場所だったのだと思う。
正法山長谷寺。読みは「ちょうこくじ」。曹洞宗の寺で、由利本荘市の赤田にある。拝観料はなく、本堂には自由に入れる。
着いたとき、お堂の下半分は養生シートと足場ですっぽり覆われていた。上の楼だけが空に出ている。ただ、中には入れた。
堂に入って、見上げた。
大きい。想像していたより、ずっと大きかった。金色の十一面観音が、堂の高さいっぱいに立っている。右手に長い錫杖(しゃくじょう)を持ち、髪は青い。左右からは金の瓔珞(ようらく)が滝のように下がり、背後の壁は黒い奉納札で埋まっている。天井は絵の入った格天井(ごうてんじょう)だ。

由利本荘市の説明によれば、是山泰覚(ぜざんたいかく)という僧が、天明4年(1784年)に造立を発願した。奈良の長谷寺と鎌倉の長谷寺にあやかって、である。三年かけて、天明6年(1786年)に完成した。像高は二丈六尺、およそ7.9メートルとある。明治21年(1888年)に客殿から出火して堂塔もろとも全焼し、いまの大仏と大仏殿は、そのあと再建されたものだ。大仏殿は国登録有形文化財になっている。
わたしは鎌倉に住んでいる。鎌倉の長谷寺にも行っている。
堂のなかには、わたしたちのほかに誰もいなかった。見上げたまま、しばらく動かずにいた。
大仏の横には神輿も置かれていた。黒漆に金、赤い高欄。鎌倉でよく見かける作りに似ていると思った。
これは夏の赤田大仏祭りで使うものだ。この大仏の御正体(ごしょうたい)——分身にあたるものが、神輿に乗って長谷寺から赤田神明社へ渡り、また戻ってくる。寺の仏が、神輿で神社へ出かけていく。神仏習合の名残をとどめる祭りとして、秋田県の無形民俗文化財になっている。
そして堂内に奉納された絵には、寄進した人の名があった。鎌倉の人だった。

まさか秋田で、鎌倉に出会うとは思っていなかった。少し不思議な気分になった。
岩城町農園の前川さんとの再会
出張の本題のひとつが、原木椎茸の生産者を訪ねることだった。ただ、その方の話は、一度聞いている。
その年の1月、東京の日本橋茅場町。由利本荘市とFOOD GROOVE JAPANの「フランス鴨祭り」というイベントがあった。市のまるごと売り込み課の方から、米、日本酒、本荘うどん、秋田由利牛、フランス鴨、そして原木椎茸を紹介してもらった。
そこに、秋田から出てきていたのが株式会社岩城町農園の前川善隆さんだった。スライドを映しながら、栽培の様子を話してくれた。昔ながらの原木栽培で、収穫まで二年。原木の成長から数えれば二十年を超えるのだという。

その日の料理で、いちばんびっくりしたのが椎茸だった。大きくて、肉厚で、噛むと食べ応えがある。しかもその場で、干し椎茸が当たった。

そして三月。客席から聞いていたその方の、作業場に立っていた。
車でかなり走った。由利本荘市の岩城地域。包装機が置かれた、使っている作業場だった。そこで椎茸キムチの打ち合わせをした。ほかにも加工品を作っていること、裏山の広い場所で原木椎茸を栽培していることを聞いた。

東京で食べたものが、ここで作られている。話を聞いただけだった方と、向かい合って話したあとでは、イベントで当たったあの椎茸が、前よりずっと愛おしくなった。大事に食べたいと思った。
唐松神社は、予定に入っていなかった
帰る日、秋田空港へ送ってもらう前に、一時間ほど時間ができた。
頼んで、唐松神社に寄ってもらった。行程に入っていなかった場所だ。読んでいた本の舞台に、段取りもなしにたどり着いてしまった。
大仙市の協和境にある。
まだ雪が残っていた。参道を歩いているあいだも、雪が降っていた。樹齢300年を超えるといわれる杉並木が両側から迫ってくる。根元は注連縄(しめなわ)で囲われている。

参道を進むと、階段が下りになる。降りた先に社殿がある。全国的にも珍しい「下り宮」だ。ふつう神社は登る。ここは降りる。

本殿を参拝してから、境内の天日宮(あまつひのみや)へ回った。
池に囲まれた、小さな社だった。まわりは丸い石を積み上げて島のようにしてある。雪が残り、水面に社が映っていた。
この石積みには、由来がある。講の人々や崇敬者が奉納した天然石を、十万個も積み上げたものだという。いまの社殿は大正3年(1914年)の再建で、庭が仕上がったのは昭和7年(1932年)。だとすれば、この景色は人が一つずつ石を持ち寄って、何十年もかけて作られたことになる。社の床下には、一面に丸石が敷き詰められている。その上に大きな丸石と、石碑が置かれていた。

市の観光協会のページは、天日宮についてこう書いている。「秋田物部氏が天地の神々を祀ったものといわれています」。
秋田物部文書の舞台だと思うと、正直、テンションが上がった。
本には「十種の神宝(とくさのかんだから)」という章がある。天から授けられたとされる十の神宝のうち、五つが現存すると書かれていた。読んでから来たので、そのことが頭にあった。
もちろん、文書がそう伝えているというだけだ。現物を見た人の話ではない。それでも、いまもこの神社のどこかに眠っているのかもしれない、とロマンだけが広がった。
いまの唐松神社は、安産と子授けの神様として親しまれている。これも神功皇后から来ている。膽咋連(いくいのむらじ)という物部の人が、三韓征伐(さんかんせいばつ)のときに懐妊中の皇后へ腹帯を献上し、のちに下賜された。それが秋田物部氏の神宝になった、と文書は伝える。
その信仰を制度にしたのは、江戸期の秋田藩主・佐竹義処(よしずみ)だった。藩内で唯一の「女一代守神」に指定し、側室や奥向きの女性たちが唐松講を結んだ。いまも「境の唐松さん」と呼ばれている。
わたしは古代史の本を抱えてここに立っていたが、この場所は何百年も、子を授かりたい人が通ってきた場所である。新しく来たのは、わたしのほうだ。
案内の人も、「敗北」の北が気になっていた
案内してくれた方が、道々こんなことを言っていた。
「敗北って、なぜ敗れて北という文字なんだろう。自分たちも負けたみたいな気分になる」
同じ疑問を、この土地の人も持っていた。
帰ってから調べた。
違っていた。
語源由来辞典によると、「北」という字は、二人の人が背を向け合っているさまを表している。そこから「相手に背を向ける」「背を向けて逃げる」という意味になった。戦いに負けて逃げることを敗北と言い、のちに単に負けることも指すようになった。敗北の「北」は、方角ではない。
方角の北は、あとから来た意味だ。南を向いて座る人の背中の側、という理屈らしい。
というわけで、わたしの仮説は死んだ。物部氏は関係なかった。そして、この土地も名指しされてなどいなかった。
ただ、死んだのは字の由来という一点だけだった。
わたしがもともと引っかかっていたのは、字そのものより、負けた側がいつも北に置かれてきたことだった。そちらは、調べると思っていたより足場があった。
長髄彦の兄とされる安日彦(あびひこ)が北へ逃れたという伝承は、鎌倉から室町にかけての『曽我物語』にすでに出てくる。
そして江戸の初め。秋田を治めていた秋田実季(さねすえ)が、自分の家の系図をまとめた。そこに書いたのは、うちは長髄彦の兄の子孫である、ということだった。
四百年前、この土地を治めていた人は、負けた側の子孫であることを、わざわざ家の由緒として書き残した。いま同じ土地では、負けると北、という言葉の形のほうが気にかかる。同じことが、誇りにも、引っかかりにもなる。
逃げてきた先ではなく、力を蓄えた場所ではないか
ここから先は、裏が取れていない。わたしの仮説だ。
朝廷での争いに負けた物部が、秋田へ来た。そこは逃げ込んだ先ではなく、祖先の地だったのではないか。唐松神社の文書は、饒速日がこの土地に降りたと伝えている。だとすれば、帰る場所である。本家があり、守ってきた一族がいて、頼れる人がいた。
もっとも、文書が舞台にしているのは市ひとつではない。饒速日が降りたとされる鳥海山は由利本荘の南にあり、日の宮を建てたという唐松岳は北の大仙にある。南の山から北の山まで、いまの市の境をまたいだ一帯が、この文書の世界だ。
ここまでは仮説だが、そのまわりには確かめられることもある。帰る場所であるためには、そこに人がいた歴史が要る。由利本荘市の才ノ神遺跡は約3万年前で、石刃(せきじん)が423点まとまって出ている。菖蒲崎貝塚は日本海側で最古級とされ、7200年前の貝層がある。ずっと人がいた。
東北全体でも、同じことが言える。縄文時代の人口を推計した小山修三の研究によると、人口が最大になる縄文中期、分布は西日本より東日本に偏っていて、東北と関東だけで全体の半分以上を占める。古事記や日本書紀が書かれるのは、それよりずっとあとの時代だ。記録が残る前の長い時間、人は東日本に多くいた。
一方で、朝廷が由理柵を置いたのは780年。中央から見れば、北へ押し出していく先の、最前線だった。中央にとっての果ては、そこに住む側から見れば、人が暮らしてきた土地の真ん中である。
話を仮説に戻す。祖先の地へ帰った物部は、ここで力を蓄えたのではないか。そしてのちに、もののふとなって、また日本を動かしていったのではないか。
——と、ここは分けて書いておく。物部氏が軍事・警察・裁判をつかさどる伴造(とものみやつこ)として朝廷に仕えた氏族だったことは、精選版日本国語大辞典にも書かれている。だから武につながる家ではある。けれど、蘇我氏に攻められて滅びたのが587年。武士が身分として世に出てくるのは、それから五百年ほどあとの平安末期だ。「もののふ」と「物部」は音が似ているが、あいだに五百年がある。まっすぐ続いている話ではない。
それでも、わたしはこう見立てたい。
負けて逃げてくる場所というのは、ネガティブな場所ではない。力を蓄える場所なのだ。
地理を見ると、この土地はそれに向いている。南に鳥海山、東に奥羽山脈。陸から入るには、山を越えなければならない。わたし自身、隣の岩手で育ちながら、ここまで一度も来られなかった。隠れて力を蓄えるには、よかったのだと思う。
ただし、海のほうは分からない。由利本荘が港町として記録に出てくるのは、ずっとあとだ。子吉川の河口にあった古雪湊が資料に見えるのは16世紀の終わりで、北前船で栄えたのは江戸期の話になる。物部の時代にここが海から開けていたかどうかは、確かめられなかった。
土地の人は、このあたりに大きな漁港はない、と言っていた。もともと港に向いた海岸ではないのかもしれない。
山は越えにくく、海も開けていたとは限らない。だとすれば、外から入ってくる人は、そう多くなかったはずだ。力を蓄えるというのは、そういう場所のことではないかと思う。
今回の命名:秋田・由利本荘
道々の、あの言葉を思い出す。自分たちも負けたみたいな気分になる、と。
そうじゃない、と言いたい。負けて流れ着いた先ではなく、帰ってきて、また出ていくための場所だ。物部がそうだったかどうかは分からない。それでも、そう見立ててから、この土地の見え方がわたしのなかで変わった。
負けて逃げてくる場所ではなく、力を蓄える場所
- 清吉そばやの中華そば → 天かすにラー油をかけて食べる「土地への入り方」
- 赤田の大仏 → 奈良と鎌倉の観音に重ねて造られた「三つめの長谷観音」
- 岩城町農園の椎茸 → 植菌から二年、原木の成長から数えれば二十年の「待たないと出てこない名産」
- 天日宮の石積み → 人が一つずつ持ち寄った十万個の「手作りの神域」
- 敗北の「北」 → 方角ではなく、背を向け合う二人の形だった。わたしの見立ては外れた。
