「ダサいたま」なんて言葉を、もう二度と使えなくなるかもしれない。
今回の旅の舞台は、埼玉・大宮。正直に告白しよう。私にとって大宮とは、長らく「東北新幹線の停車駅」であり、鎌倉に住む私にとっては、物理的にも心理的にも「ちょっと遠い場所」でしかなかった。
しかし、ある日、私が参加するコミュニティのメンバーと1on1で話をしていた時のこと。埼玉在住のその人が、熱っぽく語り出したのだ。「氷川神社はすごいぞ」と。その熱量に押され、ふらりと出かけた大宮で、私はとんでもない「時間の旅」をすることになった。
それは、縄文の海から始まり、盆栽の宇宙を経て、現代の「熱気あふれる夜」に至る、壮大な「見立て」の旅だった。
中山神社で摂社に祀られた「謎の神」との再会
まず訪れたのは、武蔵一宮氷川神社を中心とする「氷川三社」の一角、中山神社(中氷川神社)だった。
静かな境内で、私はある名前に釘付けになった。摂社に祀られていた「アラハバキ」。File.01の遠野(岩手)で出会った、あの謎多き縄文の神様だ。「なぜ、ここにアラハバキが?」
調べると、この中山神社(中氷川神社)は、大宮の氷川神社、三室の氷川女体神社と共に「氷川三社」を構成しており、この摂社のアラハバキによって、大宮の氷川神社とも深くつながっているという。
なぜ、遠野と同じ神がここに? それは、遠野と大宮、そして氷川三社をつなぐ「見えない地下茎」の存在を静かに物語っているようだった。
その足でランチに向かったのは、近くにある「ペンギン村」という喫茶店。その店名から、反射的に『Dr.スランプ アラレちゃん』を思い浮かべてしまう世代は私だけではないはずだ。
店内もその期待を裏切らず、懐かしい漫画の棚やインテリアが醸し出す、強烈な「昭和」の空気だった。
まるで時間が止まったような空間で、優しい味の和風ハンバーグをいただきながら思う。
この街には、太古の縄文から懐かしの昭和まで、いくつかの異なる「時間」が地層のように重なっているのかもしれない。
氷川神社は「古代の岬の灯台」だった?
そして真打ち、武蔵一宮氷川神社へ。2kmも続く長い参道には、おしゃれな店も増え、散歩する人々で賑わっている。しかし、一歩境内に踏み入ると、空気は一変する。
私が特に注目したのが、「蛇の池」だ。かつては禁足地だったというこの場所からは、今もこんこんと水が湧き出ている。
ここで、私の中にある「見立て」が閃いた。
本殿の歴史は2000年以上とも言われるが、もっと前、縄文時代はどうだったのか?
調べてみると、約6000年前の「縄文海進」の時代、この辺りまで「奥東京湾」という海が入り込んでいたという。大宮台地は、海に突き出した細長い「半島」だったのだ。
ならば、この氷川神社の場所は、半島の最先端、「波打ち際(キワ)」にあたる。海から船でやってきた古代の海洋民族が、航海の果てにこの半島に辿り着き、真水が湧き出るこの池を見つけ、そこに神を祀ったとしたら?
そう、ここは単なる内陸の神社ではない。かつての「古代の岬の聖地」であり、湧き出る水は、海から来た民への「命の贈り物」だったのではないか。
ここに来る途中、境内の池にいたカモたちが、人が近づいても逃げずにのんびりしている姿を見て、私は確信した。ここは今も昔も、旅人を優しく受け入れる「水辺の聖域」なのだと。
盆栽に見る「ミクロコスモス」への凝縮
次に向かったのは、「時間」のスケールが違う場所。「さいたま市大宮盆栽美術館」だ。
実は以前ここを訪れた際は、ちょうど休館日(木曜日)で涙を飲んだ。
近所の方が「『盆栽=木』だから木曜休みなんだよ」と教えてくれたが、今回は念願のリベンジ。庭園に並ぶ名品たちを、一つひとつじっくりと覗き込んでみた。
そこで見たのは、小さな鉢の中に凝縮された、圧倒的な「自然」だった。 樹齢100年、数百年という木々が、人の手によって極限まで美しく整えられ、生き続けている。
特に目を奪われたのが、「糸魚川真柏」だ。白骨化した「シャリ」が描く、生と死のコントラスト。
そう、ここはFile.03で訪れた新潟・糸魚川と繋がっている。かつてあの大地の裂け目のような厳しい環境で育った木々が、ここでは鉢という小宇宙の中で、永遠の時を生きているのだ。
これを私は、こう見立てた。
縄文の人々が、海という「外への広がり」の中に神を見出したのに対し、盆栽を愛でる人々は、鉢の中という「内への凝縮」の中に宇宙(ミクロコスモス)を見出しているのだ、と。
ものづくりを極め、道を究めることで、宇宙の真理に到達しようとする。これは、日本人が最も得意とする「精神のタイムトラベル」だ。
近くの「盆栽レストラン大宮」で、苔玉に見立てた可愛らしい「苔玉ケーキ」を食べながら、私は思った。現代の私たちは、この高尚な芸術を、こんなふうにポップに楽しむこともできる。なんと贅沢な時間の使い方だろう。

AI時代だからこそ輝く「非効率」の価値
盆栽美術館で感じたこと。それは、「時間」の価値の変化だ。
今、私たちは生成AIを使えば、一瞬でそれなりの画像や文章を作ることができる。しかし、どれだけ技術が進歩しても、100年の歳月を経た盆栽を「一瞬」で作ることはできない。
効率を突き詰めた現代社会において、この「気の遠くなるような時間をかける」ということ自体が、かつてないほどの輝きと価値を持ち始めている。
AIが一瞬で答えを出す時代だからこそ、盆栽のような「非効率な芸術」は、最高の贅沢になるという逆説。大宮は、そんな「時間の価値の逆転」を教えてくれる場所でもあった。

浦和での夜、「ダサいたま」なんて言わせない
旅の締めくくりは、浦和の「かしら屋」へ。席に着くと、頼んでもいないのに「カシラ串」がわんこそば状態で出てくる。ストップと言うまで止まらないこのシステムに、地元の活気を感じながら、私は考えた。
大宮・浦和エリアは今、人気の移住先だ。教育熱心なファミリーが増え、駅前にはマンションが立ち並ぶ。
でも、新しく住む人たちは、この土地がかつて「聖なる半島」であり、「小宇宙を作る芸術の都」であることを、どれだけ知っているだろうか?
世間では「ダサいたま」なんて自虐的に言うこともあるけれど、とんでもない。ここには、6000年の時を超える「ロマン」と、世界に誇れる「美意識」が詰まっている。
その事実を知ることは、そのまま、ここに住む人々の「誇り」になるはずだ。
カシラ串を頬張りながら、私は思った。大宮は、ダサくなんてない。とてつもなく「深い」街なのだと。
今回の見立て帖:埼玉・大宮
中山神社のアラハバキ → 遠野とつながる「縄文の地下茎」
ペンギン村 → 縄文と現代の隙間にできた「時間のエアポケット」
氷川神社の蛇の池 → 海洋民族への「命の贈り物(給水所)」
盆栽の美学 → 鉢の中に宇宙を見る「精神のタイムトラベル」
盆栽ケーキ → 芸術をポップに味わう「食べるミクロコスモス」
大宮という街 → 6000年の時間を旅する「多層的なタイムカプセル」