2026.09.21 見立て帖

ニッポンローカル見立て帖 File.07:栃木・日光 「パワースポット」に見た、人をキラキラにする1200年ぶんの祈り

ニッポンローカル見立て帖 File.07:栃木・日光 「パワースポット」に見た、人をキラキラにする1200年ぶんの祈り

日光には、あまり興味がなかった。

修学旅行の場所だと思っていた。彫り物がたくさんある。眠り猫がいる。その程度の記憶しかない。大人になってから、わざわざ行きたいと思ったことが一度もなかった。

友人が主催している神社のツアーに、日光の回がある。案内にはいつも「恋愛運」「モテモテ運」と書いてあった。そこも、ずっとピンとこなかった。

気が変わったのは、その「モテモテ」の意味を聞いたときだ。

顔が明るくなって、その人が内面から光るようになる。

そうなんだ、と思った。

私は、こういう話を信じているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、行って、感じてみたいと思った。


車の中で、「キラキラした人」の話を聞いた

当日早朝に永田町に集合した。そこから車で北へ向かう。

車の中では、主催の友人がずっと話していた。意外なことに、これから行く神社の由緒は、ほとんど出てこない。話していたのは、人の状態のことだった。

その人からにじみ出ているものが変わると、まわりの扱いが変わる。だから、まずそこを整えるほうが先なのだ、と。そういう状態の人のことを、「キラキラした人」と呼んでいた。

なるほど、と聞いていた。モテモテとは、その人から出ているものの話らしい。


最初に降ろされたのは、岩の裂け目だった

日光へ向かう途中、栃木県鹿沼市で車を降りた。岩戸神社という。

山の斜面に、岩が壁のように立っている。その岩壁の真下に、社殿があった。上から岩が覆いかぶさっていて、社殿がその下に納まっている。見上げると、岩の割れ目が奥へ続いていた。

岩窟の口の真下に、社殿が納まっている

さらに奥へ進む。岩がV字に割れていて、裂け目の底に小さな石の祠がひとつ置かれていた。脇に「雷神社」と書いた木の札が立っている。

岩の裂け目の底に、小さな石の祠。脇の木札に「雷神社」とある

圧巻だった。

参拝の人もあまり来ないようで、空間が澄んでいた。

説明板が立っていたので、読んだ。

ここは古くから「大神宮岩戸」と呼ばれた、天然の岩窟だという。

天和元年(1681年)、里の工匠・高村嘉右衛門の夢に神が現れ、「岩戸に社を建てよ」と告げた。

翌朝その話を、岩戸の地主である福田家にすると——自分も同じ夢を見た、と返ってきたそうだ。

二人は伊勢の両宮に詣でて神木を受け、この岩に社を建てた。祭神は天照大御神と豊受大神。以来、社殿を建て替えるたびに、伊勢から神木が送られてきたという。

この谷をさらに上った先に、古峯ヶ原(こぶがはら)という場所がある。日光を開いた僧が、3年こもって修行した地だと、帰ってから知った。尾根を越えれば、日光に出る。

その僧がこの岩の前を通ったかどうかまでは、資料にない。社が建ったのは、それより800年以上あとである。ただ、人が籠って修行する場所だという感じは、たしかにあった。


日光の名前は、もともと日光ではなかった

日光に着いて、この土地の名前の話を聞いた。

日光は、もともと「日光」ではなかった。

もとの名は「二荒山(ふたらさん)」、いまの男体山のことだ。

荒れが、二つ。

その「二荒」を音読みすると「にこう」になる。そこに「日光」の字を当てた。それがいまの地名になっている。

音は、ほとんど動いていない。ふたら、にこう、にっこう。動いたのは、字だけである。

荒れが二つ、という見た目が、日の光になった。

そこで、あ、と声が出た。

朝からずっと、人がキラキラするという話を聞いてきた。その行き先の名前が、あとから光る字に付け替えられたものだというのである。

日光って、元祖キラキラネームじゃないか。

そう思って見ると、日光という地名が急に親しくなった。

日光二荒山神社の楼門。いまの「日光」の名のもとになった「二荒山」を祀る神社である

もっとも、その「二荒」がもともと何を意味していたのかは、帰ってから調べて驚くことになる。


午後、最初に入ったのが御用邸だった

この日、一番印象に残ったのは、神社ではなかった。

日光田母沢御用邸である。

ちょうど紅葉の時期で、庭の紅葉がきれいだった。

杉の木立の奥に御用邸。苔の庭に日が差していた

中に入って、空気が変わった。

キラキラ、という感じではない。神々しいというか、厳かというか、建物全体がそういう気配をまとっていた。誰も住んでいない家なのに、凛としている。

丸窓ごしの中庭。黄葉と石灯籠

大正天皇が、公務を離れてこもった場所である。

もとは明治32年、皇太子だった大正天皇の静養のために造られた家だ。銀行家の別荘に、江戸の大名屋敷の一部を移して継ぎ足している。

即位したあと、この家は大きく建て増された。そのとき足されたのが、天皇が来客と公式に会う部屋、謁見所である。

静養のための家に、人と会う部屋が足されていた。

杉戸に鶏と梅が描かれた部屋。天井は洋風のシャンデリア

そして建て増しが終わった年に、天皇は病気を理由に、公務を皇太子に譲っている。


歩いていて、一室だけ、空気が違うところがあった。

畳敷きの、何も置かれていない部屋である。床の間の前に、一段高い畳が入っている。

解説板を読んで、分かった。劔璽の間(けんじのま)という。

劔璽の間。床の間の前に、一段高い畳が入っている

皇位のしるしである三種の神器のうち、剣と璽(まがたま)を安置する部屋だった。鏡は皇居から動かさないが、剣と璽は天皇の行幸に同行する。大正天皇がここに長く滞在したために、この部屋が作られた。

剣璽の間を備えた御用邸は、ここだけだという。

同じ家に、神器の置き場まであった。

ただ、この家はもともと、療養のために建てられた。そして主がいなくなったあとも、剣璽を置いた部屋は、空いたまま残っている。

誰も使っていない場所に、気配だけがある。私が感じたのは、たぶんそれだった。


東照宮には入らず、輪王寺へ行った

その次が、東照宮だった。

門の前まで来て、やめた。行列ができていて、並ぶのに1時間ほどかかると言われたからだ。海外から来た人が多かった。1時間待って中を見るより、次へ行くことにした。

東照宮の拝観券受付。石段が人で埋まっていた

次は日光山輪王寺である。目的もはっきりしていた。龍神破魔矢(りゅうじんはまや)をいただくこと。

私は旅先でお土産をほとんど買わない。その私が、この日はそれがとても気になっていた。

破魔矢を授与しているのは、輪王寺の大猷院という。徳川家光の廟所である。大猷院とは、家光の法号だ。

ここにも、遺言が残っていた。

家光は祖父の家康を深く尊敬していて、「祖父である家康公(東照宮)を凌いではならない」という遺言を残した。だから大猷院は、金と黒を使った、重厚で落ち着いた造りになっている。東照宮より派手にしないという指示が、そのまま建物の色になっている。

大猷院。金と黒でまとめられている


破魔矢は、祈るための道具だった

大猷院には夜叉門という門がある。四体の夜叉が廟を守っていて、そのうちの青い一体を烏摩勒伽(うまろきゃ)という。

この夜叉が、破魔矢の発祥とされている。全国でも珍しい姿なのだそうだ。

青い烏摩勒伽。足もとの札に名前が書いてある

龍神破魔矢は、その烏摩勒伽が持つ矢をかたどったものである。昇り龍が彫ってあって、初穂料は3,000円。

授与の前に、お寺の方が時間をとって説明してくださった。聞いた話は、三つある。

ひとつ、強い魔除けであること。烏摩勒伽と家光公の霊力が宿るとされ、玄関先に向けて置くと、「魔」が家に入るのを防ぐという。

ふたつ、願い事が叶うこと。天に向かった矢の先が、持つ者の願いを叶える力を持つ。

みっつ、買い替えなくていいこと。大猷院のご神前で永代供養されているので、普通の破魔矢のように毎年新しくする必要がない。一生モノなのだという。

三つめを聞いたとき、この土地のやることだ、と思った。

朝に見た岩戸神社も、割れた岩の形のまま、その下に社を納めてあった。御用邸もそうだ。住む人がいなくなって80年近く、建てられたときの形のまま保たれている。

そして、ひとつめとふたつめである。

この二つは、逆を向いている。玄関に向けて、魔が入るのを止める。そのいっぽうで、天に向いた矢の先が、願いを叶える。

止める力と、向ける力が、一本の矢に収まっている。

どちらも、祈るための道具だった。


開山堂に、日光を開いた人が眠っていた

滝尾神社へ向かう参道の途中に、朱塗りの堂がある。開山堂(かいさんどう)という。

この堂も、さっき破魔矢をいただいた大猷院も、「日光山輪王寺」という同じ寺に属している。輪王寺は一つの建物ではなく、日光山内に散らばる堂塔をまとめた寺号なのだ。

766年に山を開いた人と、1653年に祀られた将軍が、同じ寺の中にいる。

堂のそばに、仏岩があった。

割れた岩が幾重にも重なって崖になっていて、その根元のくぼみに、石の像が並んでいる。苔と地衣類で全体が灰緑色に染まっていて、顔の彫りだけがはっきり残っている。像の前には、黄色い菊が供えてあった。

見上げると、岩は上へ上へと崩れながら積み上がっていて、像はその一番下にいる。

仏岩。崩れた岩が積み上がり、その根元に石の像が並んでいる

ここで、日光を開いた人が送られた。

勝道上人(しょうどうしょうにん)という。

十人の弟子を連れて大谷川を渡ったとき、東の空に紫の雲が立ち昇るのを見て、その場所に庵を結んだ。それが日光山の始まりだという。

男体山には、三度目でようやく登れている。深い雪と崖と雷に阻まれて、21日間その場にとどまってから引き返したこともあった。

中禅寺湖では、湖の上に千手観音を見て、そこに生えていた桂の木に、立ったまま彫った。その観音は、いまも根が地についたままだという。

亡くなったのは83歳のとき。のちに東照宮が日光に来ると、この場所に堂が建てられ、骨も移された。

堂の中は、ふだんは閉じている。この日も、外から見ただけだった。ただ、中には勝道上人と、十大弟子の木像が納められているという。

十人の弟子を連れて山に入った人が、いまも十人と一緒にいることになる。


開山堂の先は、滝尾神社だった

道は、そのまま山の奥へ続いている。石畳が苔むしていて、両側に杉の巨木が立つ。歩いているうちに、観光地から山に入ったことがわかる。

やがて、朱塗りの楼門が見えてくる。滝尾神社である。

滝尾神社の楼門。石畳の参道と苔むした石段

二荒山神社の別宮で、本社から西へ約1キロ。11月だったので、門の上に黄色い葉がかぶさっていた。石段も石畳も、苔と落ち葉でしっとりしていた。

本殿の前に、小さな門がある。低い石の柵が巡らされていて、その向こうに社殿が立っていた。黒い塀に赤い扉。あとは、木と石と苔の色だけだった。

祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)という。二荒山神社は父と母と子の三柱の神を祀っていて、その母神だけが、ここに別に祀られている。

本殿の裏には、三本杉があった。田心姫命が降りたと伝わる場所で、そこだけ石鳥居と石柵で囲ってある。

太い杉が三本、まっすぐ立っていて、それぞれの幹に注連縄と紙垂が巻かれている。まわりを柵が囲っていて、中には入れない。手前の石の鳥居ごしに見ると、その枠の中にちょうど収まっていた。

石の鳥居ごしの三本杉。田心姫命が降りたと伝わる場所

そのそばに、大きな平たい岩があった。注連縄を巻かれて、石の柵に囲まれている。影向石(ようごうせき)という。

影向石。注連縄を巻かれ、石の柵に囲まれている

弘仁11年(820年)、弘法大師がこの地で神霊の降下を祈ったところ、大岩のあたりに女神が現れたと伝わる。影向とは、神仏が仮の姿をとってこの世にあらわれることをいう。

朝に見た岩と、同じだった。鹿沼の岩戸神社は、二人が見た夢のお告げで、岩窟に社が建った。ここは、大岩のところに女神が現れたと伝えられて、縄が巻かれた。どちらも、岩のところに神を見て、祀っている。

一日が、岩で始まって岩で終わった。


帰ってから調べたら、同じ形が二つ出てきた

ここまでが、実際に回った場所である。面白くなったのは、帰ってからだった。

ツアーの当日、友人がこんなことを言っていた。日光からのパワーが、東京を支えている、と。

帰ってから、同じことを400年前に言っている人がいるのを知った。徳川家康である。

家康は1616年に亡くなっている。その死の前に残した言葉が、側近の僧の日記に書き留められていた。遺体は駿河へ。葬儀は江戸で。位牌は三河に。そして——一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて自分を祀れ。八州の鎮守となろう。

八州とは、江戸を含む関東全域のことだ。死んだあと、関東全部の守り神になる。家康はそう決めていた。

もっとも、この山には先客がいた。勝道上人が開いてから850年、人が集まり続けている山である。その上に、家康が祀られた。

遺言のとおりになった。翌年、家康は日光へ遷される。その2年後には二荒山神社も建て直され、幕府は江戸から日光へ街道を引いた。朝廷は221年間、毎年欠かさず使者を送り、幣帛を奉納し続けている。1回も休んでいない。

友人が言っていた「東京を支えている」は、この遺言を今の言葉にしたものなのだと思った。パワーと鎮守は、同じ言葉ではない。それでも、この山に「関東を守る役」を置いたのは、家康自身である。

そしてもう一つ、名前のほうにも先客がいた。

「ふたら」は観音浄土の「補陀洛(ふだらく)」から来ているとも言われる、と日光市観光協会の資料にあった。補陀洛はサンスクリットのポタラカ——観音菩薩が住むとされる、南の海の山の名だ。

つまり「二荒」の字も、荒れが二つという意味で付いた名前ではない。もとから、観音の浄土の名だった。

これには驚いた。

私は、荒れた名前が光る名前に直されたのだと思っていた。逆である。もともと最高の名前がついている山に、さらに「日の光」の字を重ねている。

悪い名を直したのではない。いい名を、もっと追加した。

そして、いつ、誰が、なぜ光らせたのかは、分からない。弘法大師空海が字を当てたと伝わってはいるが、裏付けはない。

家康は850年の霊場の上に、「日光」の字は観音の浄土の名の上に、それぞれあとから重ねられている。


今回の命名:栃木・日光

この連載では、最後に、その土地へ自分なりの名前をつけることにしている。

この日歩いた場所をふり返ると、別々の時代の、別々の人が、同じ場所に、同じ種類の意味を重ねている。

人はこの山を信じて、祈りを重ねてきた。

1200年ぶんの祈りが、同じ山に積んである。

そういえば、この旅は「モテモテになる」から始まったのだった。

一日回り終えたころ、私も含めて、一緒に歩いた人たちがキラキラした感じがした。

家に飾った破魔矢を見るたびに、あのときの感覚を思い出せそうな気がしている。

持ち帰った龍神破魔矢

人をキラキラにする、1200年ぶんの祈り

旅のメモ

訪問:2025年11月8日 / 開山堂・大猷院はどちらも日光山輪王寺の堂塔。輪王寺は日光山内の堂塔をまとめた寺号で、本堂は三仏堂。 地図のピンと下のカードの番号は対応しています。

1

岩戸神社

神社

天然の岩窟「大神宮岩戸」。天和元年(1681)、里の工匠と岩戸の地主が同じ夜に同じ夢を見て、伊勢両宮に詣でて神木を受け、社を建てたと境内の説明板にある。祭神は天照大御神・豊受大神。岩の裂け目に雷神社の小祠。

住所
栃木県鹿沼市引田
行き方
大芦川沿い、古峯神社へ向かう道の途中
2

古峯神社

神社

尾根を経て日光へ至る深山の地で、日光開山の祖・勝道上人の修行地だったという由緒から、修験道の道場とされる。祭神は日本武尊。天狗を神使とする信仰で知られる。

住所
栃木県鹿沼市草久3027
行き方
大芦川の源流近く。岩戸神社から谷をさらに上る
3

日光そば処 たくみ庵

食べる

日光産のそば粉を季節ごとに4種類、日光の名水を使う。予約不可で、着いた順に名前を書いて待つ。

住所
栃木県日光市匠町7-46
行き方
日光田母沢御用邸記念公園から徒歩約2分
4

日光田母沢御用邸記念公園

見る

明治32年(1899)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)の静養地として造営。江戸後期・明治・大正の三時代の建築群。三種の神器のうち剣と璽を安置した劔璽の間がある。国の重要文化財。

住所
栃木県日光市本町8-27
5

日光山輪王寺 大猷院

お寺

三代将軍家光公の廟所。家康公を凌いではならないという遺言により、金と黒の重厚な造り。夜叉門の烏摩勒伽(うまろきゃ)は破魔矢の発祥とされる。龍神破魔矢はここで授与されている。

住所
栃木県日光市山内2300
6

日光二荒山神社

神社

御祭神は二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の親子三神)。本殿は元和5年(1619年)造営。本殿や神橋など23棟が重要文化財。

住所
栃木県日光市山内2307
7

開山堂(日光山輪王寺)

お寺

日光開山の祖・勝道上人の霊廟。荼毘に付された仏岩谷に建つ。堂内に勝道上人と十大弟子の木造坐像、外に五輪塔「勝道上人之墓」。この先が滝尾神社への参道。

住所
〒321-1494 栃木県日光市山内2300
8

滝尾神社(日光二荒山神社 別宮)

神社

祭神は田心姫命。本殿裏の三本杉は田心姫命が降臨したと伝わる場所。そばに影向石。本社から西へ約1キロ。

住所
栃木県日光市山内2310-1

この旅で食べたもの

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福田美佐子

Author

福田 美佐子 Misako Fukuda

フードメディア・ディレクター / 企画編集プロデューサー。 「頑張らない大人の、食と暮らしのキロク」をテーマに、東京・鎌倉・湘南エリアの魅力を発信しています。

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