日光には、あまり興味がなかった。
修学旅行の場所だと思っていた。彫り物がたくさんある。眠り猫がいる。その程度の記憶しかない。大人になってから、わざわざ行きたいと思ったことが一度もなかった。
友人が主催している神社のツアーに、日光の回がある。案内にはいつも「恋愛運」「モテモテ運」と書いてあった。そこも、ずっとピンとこなかった。
気が変わったのは、その「モテモテ」の意味を聞いたときだ。
顔が明るくなって、その人が内面から光るようになる。
そうなんだ、と思った。
私は、こういう話を信じているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、行って、感じてみたいと思った。
車の中で、「キラキラした人」の話を聞いた
当日早朝に永田町に集合した。そこから車で北へ向かう。
車の中では、主催の友人がずっと話していた。意外なことに、これから行く神社の由緒は、ほとんど出てこない。話していたのは、人の状態のことだった。
その人からにじみ出ているものが変わると、まわりの扱いが変わる。だから、まずそこを整えるほうが先なのだ、と。そういう状態の人のことを、「キラキラした人」と呼んでいた。
なるほど、と聞いていた。モテモテとは、その人から出ているものの話らしい。
最初に降ろされたのは、岩の裂け目だった
日光へ向かう途中、栃木県鹿沼市で車を降りた。岩戸神社という。
山の斜面に、岩が壁のように立っている。その岩壁の真下に、社殿があった。上から岩が覆いかぶさっていて、社殿がその下に納まっている。見上げると、岩の割れ目が奥へ続いていた。

さらに奥へ進む。岩がV字に割れていて、裂け目の底に小さな石の祠がひとつ置かれていた。脇に「雷神社」と書いた木の札が立っている。

圧巻だった。
参拝の人もあまり来ないようで、空間が澄んでいた。
説明板が立っていたので、読んだ。
ここは古くから「大神宮岩戸」と呼ばれた、天然の岩窟だという。
天和元年(1681年)、里の工匠・高村嘉右衛門の夢に神が現れ、「岩戸に社を建てよ」と告げた。
翌朝その話を、岩戸の地主である福田家にすると——自分も同じ夢を見た、と返ってきたそうだ。
二人は伊勢の両宮に詣でて神木を受け、この岩に社を建てた。祭神は天照大御神と豊受大神。以来、社殿を建て替えるたびに、伊勢から神木が送られてきたという。
この谷をさらに上った先に、古峯ヶ原(こぶがはら)という場所がある。日光を開いた僧が、3年こもって修行した地だと、帰ってから知った。尾根を越えれば、日光に出る。
その僧がこの岩の前を通ったかどうかまでは、資料にない。社が建ったのは、それより800年以上あとである。ただ、人が籠って修行する場所だという感じは、たしかにあった。
日光の名前は、もともと日光ではなかった
日光に着いて、この土地の名前の話を聞いた。
日光は、もともと「日光」ではなかった。
もとの名は「二荒山(ふたらさん)」、いまの男体山のことだ。
荒れが、二つ。
その「二荒」を音読みすると「にこう」になる。そこに「日光」の字を当てた。それがいまの地名になっている。
音は、ほとんど動いていない。ふたら、にこう、にっこう。動いたのは、字だけである。
荒れが二つ、という見た目が、日の光になった。
そこで、あ、と声が出た。
朝からずっと、人がキラキラするという話を聞いてきた。その行き先の名前が、あとから光る字に付け替えられたものだというのである。
日光って、元祖キラキラネームじゃないか。
そう思って見ると、日光という地名が急に親しくなった。

もっとも、その「二荒」がもともと何を意味していたのかは、帰ってから調べて驚くことになる。
午後、最初に入ったのが御用邸だった
この日、一番印象に残ったのは、神社ではなかった。
日光田母沢御用邸である。
ちょうど紅葉の時期で、庭の紅葉がきれいだった。

中に入って、空気が変わった。
キラキラ、という感じではない。神々しいというか、厳かというか、建物全体がそういう気配をまとっていた。誰も住んでいない家なのに、凛としている。

大正天皇が、公務を離れてこもった場所である。
もとは明治32年、皇太子だった大正天皇の静養のために造られた家だ。銀行家の別荘に、江戸の大名屋敷の一部を移して継ぎ足している。
即位したあと、この家は大きく建て増された。そのとき足されたのが、天皇が来客と公式に会う部屋、謁見所である。
静養のための家に、人と会う部屋が足されていた。

そして建て増しが終わった年に、天皇は病気を理由に、公務を皇太子に譲っている。
歩いていて、一室だけ、空気が違うところがあった。
畳敷きの、何も置かれていない部屋である。床の間の前に、一段高い畳が入っている。
解説板を読んで、分かった。劔璽の間(けんじのま)という。

皇位のしるしである三種の神器のうち、剣と璽(まがたま)を安置する部屋だった。鏡は皇居から動かさないが、剣と璽は天皇の行幸に同行する。大正天皇がここに長く滞在したために、この部屋が作られた。
剣璽の間を備えた御用邸は、ここだけだという。
同じ家に、神器の置き場まであった。
ただ、この家はもともと、療養のために建てられた。そして主がいなくなったあとも、剣璽を置いた部屋は、空いたまま残っている。
誰も使っていない場所に、気配だけがある。私が感じたのは、たぶんそれだった。
東照宮には入らず、輪王寺へ行った
その次が、東照宮だった。
門の前まで来て、やめた。行列ができていて、並ぶのに1時間ほどかかると言われたからだ。海外から来た人が多かった。1時間待って中を見るより、次へ行くことにした。

次は日光山輪王寺である。目的もはっきりしていた。龍神破魔矢(りゅうじんはまや)をいただくこと。
私は旅先でお土産をほとんど買わない。その私が、この日はそれがとても気になっていた。
破魔矢を授与しているのは、輪王寺の大猷院という。徳川家光の廟所である。大猷院とは、家光の法号だ。
ここにも、遺言が残っていた。
家光は祖父の家康を深く尊敬していて、「祖父である家康公(東照宮)を凌いではならない」という遺言を残した。だから大猷院は、金と黒を使った、重厚で落ち着いた造りになっている。東照宮より派手にしないという指示が、そのまま建物の色になっている。

破魔矢は、祈るための道具だった
大猷院には夜叉門という門がある。四体の夜叉が廟を守っていて、そのうちの青い一体を烏摩勒伽(うまろきゃ)という。
この夜叉が、破魔矢の発祥とされている。全国でも珍しい姿なのだそうだ。

龍神破魔矢は、その烏摩勒伽が持つ矢をかたどったものである。昇り龍が彫ってあって、初穂料は3,000円。
授与の前に、お寺の方が時間をとって説明してくださった。聞いた話は、三つある。
ひとつ、強い魔除けであること。烏摩勒伽と家光公の霊力が宿るとされ、玄関先に向けて置くと、「魔」が家に入るのを防ぐという。
ふたつ、願い事が叶うこと。天に向かった矢の先が、持つ者の願いを叶える力を持つ。
みっつ、買い替えなくていいこと。大猷院のご神前で永代供養されているので、普通の破魔矢のように毎年新しくする必要がない。一生モノなのだという。
三つめを聞いたとき、この土地のやることだ、と思った。
朝に見た岩戸神社も、割れた岩の形のまま、その下に社を納めてあった。御用邸もそうだ。住む人がいなくなって80年近く、建てられたときの形のまま保たれている。
そして、ひとつめとふたつめである。
この二つは、逆を向いている。玄関に向けて、魔が入るのを止める。そのいっぽうで、天に向いた矢の先が、願いを叶える。
止める力と、向ける力が、一本の矢に収まっている。
どちらも、祈るための道具だった。
開山堂に、日光を開いた人が眠っていた
滝尾神社へ向かう参道の途中に、朱塗りの堂がある。開山堂(かいさんどう)という。
この堂も、さっき破魔矢をいただいた大猷院も、「日光山輪王寺」という同じ寺に属している。輪王寺は一つの建物ではなく、日光山内に散らばる堂塔をまとめた寺号なのだ。
766年に山を開いた人と、1653年に祀られた将軍が、同じ寺の中にいる。
堂のそばに、仏岩があった。
割れた岩が幾重にも重なって崖になっていて、その根元のくぼみに、石の像が並んでいる。苔と地衣類で全体が灰緑色に染まっていて、顔の彫りだけがはっきり残っている。像の前には、黄色い菊が供えてあった。
見上げると、岩は上へ上へと崩れながら積み上がっていて、像はその一番下にいる。

ここで、日光を開いた人が送られた。
勝道上人(しょうどうしょうにん)という。
十人の弟子を連れて大谷川を渡ったとき、東の空に紫の雲が立ち昇るのを見て、その場所に庵を結んだ。それが日光山の始まりだという。
男体山には、三度目でようやく登れている。深い雪と崖と雷に阻まれて、21日間その場にとどまってから引き返したこともあった。
中禅寺湖では、湖の上に千手観音を見て、そこに生えていた桂の木に、立ったまま彫った。その観音は、いまも根が地についたままだという。
亡くなったのは83歳のとき。のちに東照宮が日光に来ると、この場所に堂が建てられ、骨も移された。
堂の中は、ふだんは閉じている。この日も、外から見ただけだった。ただ、中には勝道上人と、十大弟子の木像が納められているという。
十人の弟子を連れて山に入った人が、いまも十人と一緒にいることになる。
開山堂の先は、滝尾神社だった
道は、そのまま山の奥へ続いている。石畳が苔むしていて、両側に杉の巨木が立つ。歩いているうちに、観光地から山に入ったことがわかる。
やがて、朱塗りの楼門が見えてくる。滝尾神社である。

二荒山神社の別宮で、本社から西へ約1キロ。11月だったので、門の上に黄色い葉がかぶさっていた。石段も石畳も、苔と落ち葉でしっとりしていた。
本殿の前に、小さな門がある。低い石の柵が巡らされていて、その向こうに社殿が立っていた。黒い塀に赤い扉。あとは、木と石と苔の色だけだった。
祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)という。二荒山神社は父と母と子の三柱の神を祀っていて、その母神だけが、ここに別に祀られている。
本殿の裏には、三本杉があった。田心姫命が降りたと伝わる場所で、そこだけ石鳥居と石柵で囲ってある。
太い杉が三本、まっすぐ立っていて、それぞれの幹に注連縄と紙垂が巻かれている。まわりを柵が囲っていて、中には入れない。手前の石の鳥居ごしに見ると、その枠の中にちょうど収まっていた。

そのそばに、大きな平たい岩があった。注連縄を巻かれて、石の柵に囲まれている。影向石(ようごうせき)という。

弘仁11年(820年)、弘法大師がこの地で神霊の降下を祈ったところ、大岩のあたりに女神が現れたと伝わる。影向とは、神仏が仮の姿をとってこの世にあらわれることをいう。
朝に見た岩と、同じだった。鹿沼の岩戸神社は、二人が見た夢のお告げで、岩窟に社が建った。ここは、大岩のところに女神が現れたと伝えられて、縄が巻かれた。どちらも、岩のところに神を見て、祀っている。
一日が、岩で始まって岩で終わった。
帰ってから調べたら、同じ形が二つ出てきた
ここまでが、実際に回った場所である。面白くなったのは、帰ってからだった。
ツアーの当日、友人がこんなことを言っていた。日光からのパワーが、東京を支えている、と。
帰ってから、同じことを400年前に言っている人がいるのを知った。徳川家康である。
家康は1616年に亡くなっている。その死の前に残した言葉が、側近の僧の日記に書き留められていた。遺体は駿河へ。葬儀は江戸で。位牌は三河に。そして——一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて自分を祀れ。八州の鎮守となろう。
八州とは、江戸を含む関東全域のことだ。死んだあと、関東全部の守り神になる。家康はそう決めていた。
もっとも、この山には先客がいた。勝道上人が開いてから850年、人が集まり続けている山である。その上に、家康が祀られた。
遺言のとおりになった。翌年、家康は日光へ遷される。その2年後には二荒山神社も建て直され、幕府は江戸から日光へ街道を引いた。朝廷は221年間、毎年欠かさず使者を送り、幣帛を奉納し続けている。1回も休んでいない。
友人が言っていた「東京を支えている」は、この遺言を今の言葉にしたものなのだと思った。パワーと鎮守は、同じ言葉ではない。それでも、この山に「関東を守る役」を置いたのは、家康自身である。
そしてもう一つ、名前のほうにも先客がいた。
「ふたら」は観音浄土の「補陀洛(ふだらく)」から来ているとも言われる、と日光市観光協会の資料にあった。補陀洛はサンスクリットのポタラカ——観音菩薩が住むとされる、南の海の山の名だ。
つまり「二荒」の字も、荒れが二つという意味で付いた名前ではない。もとから、観音の浄土の名だった。
これには驚いた。
私は、荒れた名前が光る名前に直されたのだと思っていた。逆である。もともと最高の名前がついている山に、さらに「日の光」の字を重ねている。
悪い名を直したのではない。いい名を、もっと追加した。
そして、いつ、誰が、なぜ光らせたのかは、分からない。弘法大師空海が字を当てたと伝わってはいるが、裏付けはない。
家康は850年の霊場の上に、「日光」の字は観音の浄土の名の上に、それぞれあとから重ねられている。
今回の命名:栃木・日光
この連載では、最後に、その土地へ自分なりの名前をつけることにしている。
この日歩いた場所をふり返ると、別々の時代の、別々の人が、同じ場所に、同じ種類の意味を重ねている。
人はこの山を信じて、祈りを重ねてきた。
1200年ぶんの祈りが、同じ山に積んである。
そういえば、この旅は「モテモテになる」から始まったのだった。
一日回り終えたころ、私も含めて、一緒に歩いた人たちがキラキラした感じがした。
家に飾った破魔矢を見るたびに、あのときの感覚を思い出せそうな気がしている。

人をキラキラにする、1200年ぶんの祈り
- 岩戸神社の岩 → 二人が同じ夢を見たから社になった「夢で決まった御神体」
- 二荒山 → もとからいい名前だったのに、さらに光る字を重ねられた「元祖キラキラネーム」
- 田母沢御用邸 → 主がいなくなっても気配だけ残っている「留守のままの聖域」
- 龍神破魔矢 → 一度いただけば買い替えなくていい「一生ものの門番」
- 滝尾神社 → 父と子から離れて、母神だけが祀られている「山の奥の離れ」