きっかけは、「越後・謙信SAKEまつり」に誘われたことだった。日本酒を飲みに、新潟県の上越市へ行く。私の中では、それだけの旅だった。
祭りは二日目だ。前泊で直江津に入り、翌朝、高田へ移った。
高田の古い通りで、マルシェをやっていた。
「ふたたびの どうぐや」とある。古い薬箱、竹の籠、木枠のガラスケース。どれも一度は誰かの家にあって、役目を終えたものだ。それを並べて、また誰かに渡そうとしている。
店の人と話しているうちに、話が入り口の装飾のことになった。この建具はね、と教えてくれる。もとは直江津の宿にあったものなのだという。
昨日、直江津の附船屋に泊まったんですよ、と私は言った。
すると——その隣にあった宿のものだよ、と返ってきた。
泊まった宿そのものではない。隣である。
隣の宿は、あるとき取り壊されたのだという。そのときに建具を引き取って、手を入れて、この店に置いてある。いい建物だったらしい。
同じ通りに並んで建っていた建物の一部と、翌日、別の町で会っていた。
そのときは、すごい偶然だと思っただけだった。旅が終わってから、そうではないと思うようになった。
——話は、前の日の直江津から始まる。
港の宿が、駅前の宿になった
泊まったのは、直江津の旅館 附船屋(つけふねや)という。
歩道の上に木の庇が長く張り出していて、その下に緑の袖看板が出ている。
直江津の駅前には、いまも宿が何軒か並んでいる。ここもその一軒だ。
引き戸を開けて、足を止めた。
玄関の寄木の床が、鏡のように光っている。天井の照明も、廊下の椅子も、そこに映り込んでいた。その上に猫が座って、こちらを見ていた。奥の廊下にもう一匹いる。二匹とも動かない。
設備は古い。けれど、とてもきれいだった。古さときれいさは、別々に決まる。
床の艶は、掃除の回数がそのまま出る。
この宿の名前は、船から来ている。「まだ昔鉄道がなかった時代に海のそばで宿屋を営んでいたから」附船屋なのだと、公式サイトにある。信越線が開通してからは、駅前旅館になった。
港の宿だったものが、駅前の宿になっている。建て替えたのではない。役目のほうを架け替えている。
直江津は、古い港だ。室町時代の海の法規集「廻船式目」に、全国の主要港の一つとして名前が載っている。上杉謙信の時代には、青苧(あおそ/布の原料になる繊維)の積出港だった。
船が運んだのは、塩や茶、藍玉という染料、陶磁器、そして着物。重しとして積まれた石も、ここで降ろされた。それらが高田平野や信濃へ入っていった。
翌朝、玄関を出るとき、猫はゆうべと同じ場所にいた。そのまま海まで歩いた。
砂浜の先に防波堤が伸びて、その向こうが日本海だった。帰り道、川沿いの柵越しに、尖った山が街の向こうに立っている。
海のそばに、住吉神社があった。ここには、阿波——徳島の藍商人が奉納した灯籠や手水石があるという。私が朝に見たのがその石かどうかは、確かめていない。ただ、船が運んできたものが染料だけではなかったことは、この街に石として残っている。
買った服に着替えて、街に出た
高田駅で降りた。
尖った塔が二つ、中央に時計。和洋折衷の大きな駅舎だった。
「ふたたびのどうぐや」があったのは、オフィスたてぐや北川という建具屋の建物だ。マルシェが開かれていて、古道具のほかに、古着をリメイクしたものが並んでいた。着物地のバッグ、パッチワークを着せられたトルソー、足踏みミシン。毛糸を詰めたガラス瓶。
私はそこで、二枚買った。
一枚は黒い羽織。着物をほどいて仕立て直したもので、背中に細かい絞りの模様が入っている。光の角度で浮かんでくる。
もう一枚は、下に着るチュニックだ。大島紬を仕立て直したものだという。
それが、ほどかれて、形を変えて、目の前にあった。
二枚と、同じくリメイクのポシェットを合わせて、七千五百円だった。役目を変えて、まだ現役でいる。
いい買い物をした、と思った。買って、その場で着替えて、街を歩いた。
自分が着てしまうと、見え方が変わる。この街で、同じようなものを他でも見ていたことを思い出した。旧今井染物屋や町家交流館高田小町のあたりでも、手作りのリメイク品を見かけた記憶がある。
一軒の趣味ではないのかもしれない。そう思いはじめたのは、このあたりからだった。
雁木通りの下は、私有地だった
きものの小川という店に入った。もとは呉服店で、いまは小物などを売っている。書の看板が下がり、店先の土間がそのまま通りへ続いている。
ご主人が、この一帯の建物の話をしてくれた。次から次へと出てきた。
高田の通りには、家の前に長い庇が張り出している。雁木(がんぎ)といい、それが続く道を雁木通りという。
まず、雪の量が違う。高田は「世界有数の積雪量が多い都市で雁木発祥の地」とされ、冬には「道路は完全に雪で埋もれ」る。江戸時代には「この下に高田あり」と高札が立てられたほどの豪雪地帯だったという。
道が消える町なのだ。
そこで、家の側が庇を出した。家々が同じように庇を出せば、雪の下にもう一本、道ができる。それが雁木通りだ。
驚いたのは、ここからだった。
雁木は主屋の一部で、その下は私有地である。新潟県立歴史博物館の解説に、こう書いてある。「雁木の下は私有地ですが、みんなが通れるように開放されています」。その総延長は日本一(上越市の資料には約12キロとも16キロともあり、数字には幅がある)。
つまりこの通りは、行政が造った公道ではない。一軒一軒が自分の敷地を差し出して、繋がった結果、道になっている。
だから、揃っていない。軒の高さも、柱の間隔も、敷石も家ごとに違う。見上げると、垂木がむき出しのまま奥へ伸びている。屋根と呼ぶには薄く、廊下と呼ぶには外だ。その不揃いが、一軒ずつの判断の跡だった。
私が歩いたのは十月で、雪はどこにもなかった。この道の意味が本当に分かるのは、たぶん冬だ。
もう一つが町家である。間口が狭くて奥行きの長い造り。狭い土地に多くの町民が住むためと、間口の幅で税が決まったために、この形になった。城下町高田は、およそ40の「個別町」からできていた。
税の都合でできた形の家が、私有地を差し出して、雪の下の道を四百年ぶん繋いでいる。雁木通りと町家は、一つの仕組みの表と裏だった。
ご主人は、二階も見せてくれた。
畳の大広間があった。欄間の透かしが天井近くに並び、壁は落ち着いた青緑で、丸いちゃぶ台がひとつ置いてある。吹き抜けを見上げると、太い梁が組まれ、黄色い和紙の大きな照明が下がっていた。いまは貸しスペースとして使っているという。
雪国の町家の特徴に「チャノマの吹抜け空間」がある。私が見上げていたのは、この街の町家がもともと持っている形だった。
ご主人は、傷のあるところを指して、自分が子どもの頃につけたものだと教えてくれた。この二階で、走り回って遊んでいたらしい。そう言って、笑っていた。
そしてこの家には、いまも人が住んでいる。二階を人に貸し、一階で店をやり、その上で建物を残している。
歌詞カードを渡された
話の途中で、ご主人が一枚の紙をくれた。
石川さゆりの歌の、歌詞カードだった。
紙にQRコードが刷ってあって、ここから曲も聴けるから、聴いてほしいと言われた。ご主人にとって、それは大事なもののようだった。
ただ、私にはまだ分からなかった。呉服屋で、なぜ演歌の歌詞をもらうのか。この街には何か重要なことなのだろうか、と思っただけで、その日は終わった。
帰ってから調べたら、繋がった。
曲は「越後瞽女(えちごごぜ)」という。2023年10月に出た、石川さゆりの127枚目のシングルだ。作詞は喜多條忠。かぐや姫の歌をいくつも書いた人で、2021年に亡くなっている。歌詞には「雁木」「高田」「新井」「直江津」が入っている。
瞽女は、目の見えない女性の旅芸人のことだ。三味線を持って村から村へ歩き、唄と語りを届けた。農山村の人にとっては、数少ない娯楽だった。上越市の資料によれば、高田瞽女は明治半ばの最盛期に親方の家が19軒あり、89人が共同生活をしていた。そしてその場所は——
「高田の雁木が続く東本町」だった。
瞽女は、雁木を歩いていた。
目の見えない人が、雪の日に、家から家へ、村から村へ移動できる。それは、誰かが自分の土地を開けておいたから成り立っていた。雁木は雪よけの設備である前に、通る人のための約束だったのではないか。
高田瞽女は昭和39年を最後に終わっている。それから約60年たって、歌になった。そして2025年6月27日、石川さゆりが上越市の瞽女ミュージアム高田を訪れている。「生きざまを歌で伝えたい」と話したと報じられた。
私が高田を歩いたのは、その四か月後だ。
ご主人の意図は、本人にしか分からない。ただ、あのとき街の人にとって、瞽女は「今の話題」だったのかもしれない。60年前に終わった街の記憶が、歌になって戻ってきて、歌った人が街まで来た。その四か月後に、旅人が店に入ってきた。だから紙を一枚渡して、聴いてほしい、と言った。
私は、渡された側だ。
仕立て屋が、カフェになっていた
昼は、街歩きの途中で会う人に片端から聞いて、行く先々で名前の挙がった店へ入った。CASUAL DAYS。ここも町家の一階だった。
大町通り沿いの、昭和初期に建てられた町家を改装した店だ。もとは仕立て屋だった建物だという。柱と梁はそのまま、奥は吹き抜けにして光を入れている。
店主は、神奈川から来た夫妻。長くパン職人をしていた人が、コーヒーに惹かれ、妻の実家のある上越で店を開いた。職人の町だった大町通りの空気が気に入って、ここに決めたそうだ。
布を扱う店が、コーヒーとサンドイッチの店になっている。建具屋がマルシェになり、呉服店が小物を売っているのと、地続きだ。そして受け取ったのは、この街の人ではなかった。
ここまでで、町家の使われ方を三つ見たことになる。
高田の古い街並みは、町家と雁木通りが保存の対象になっている。旧今井染物屋や町家交流館高田小町のような、保存されている家。きものの小川のような、住みながら残されている家。そして、いまの店が入っている家。
保存された建物は、見せるために整えられる。住んでいる家は、住んでいるぶんの使われ方をしている。残すことと、住むことは、同じではない。
三つ目は、そのどちらでもない。建物だけが残って、中身がそっくり入れ替わっている。それでも壊されずに続いている。
渡す相手は、身内でなくてもよかった。そしてこの店を私に渡したのは、街の人だった。誰に聞いても、同じ名前が返ってきた。
謙信は、この町にいなかった
そして、越後・謙信SAKEまつりである。
青い立て看板が出て、白いテントが並ぶ。高田本町商店街が歩行者天国になっていて、普通の道がそのまま会場だった。
三千円を払うと、おちょことリストバンドを渡される。あとは二十七の酒のブースを、好きなだけ回れる。色々飲み比べてかなり酔っぱらったが、佐渡から来ていた天領盃が印象的だった。
日本酒を愛する県民が、ゆるりと集まって飲み歩いている。
ただ、謙信を感じる場面は、一度もなかった。
自分の感度が鈍いのだと思っていた。調べたら、そうではなかった。
謙信が死んだのは1578年。居城は春日山城。高田ではなく、直江津から内陸へ入ったところにある。
高田に城が建つのは、その36年後だ。1614年、松平忠輝が高田城を築き、その城下町が高田になった。普請を仕切ったのは忠輝の舅の伊達政宗で、三月の着工から四か月ほどで城が建っている。
高田の町が生まれたのは、謙信が死んで36年後だ。
謙信がいたのは春日山と、その外港である直江津のほうだった。つまり、私が前の晩に泊まっていた側である。高田で謙信を感じなかったのは、当たり前だった。
きものの小川のご主人が「伊達政宗が短期間でつくった街だ」と言っていたのは、この話だった。街を開いたのは忠輝で、それを四か月で建てさせたのが政宗だ。
500年前の名前で、いまの人が集まって飲む。こういう歴史の関わり方もある。
今回の命名:新潟・上越
建具は隣の宿から古道具屋へ、宿は港から駅前へ、着物はほどかれて羽織へ。途絶えた瞽女は歌になって戻り、500年前の武将の名は、いまも人を集めている。
この街では、終わったものが終わっていない。誰かに渡って、形を変えて、まだ使われている。
その気持ちがどこから来るのかを考えていて、雪のことを思った。
道が完全に埋まる町だ。自分の土地を開けておかないと、冬に人が通れない。雁木通りは、それを四百年続けた結果として残っている。
開けておくことが先にある町なら、ものを渡すのも、その延長にあるのではないか。
古いものが、ちゃんと誰かに渡っていく町
雁木通りと町家 → 一軒ずつの私有地でできた「雪の下の公道」
ふたたびのどうぐや → 役目を終えたものが次の主を待つ「持ち主の待合室」
旅館 附船屋 → 毎日磨かれるから古びない「艶で守られた昭和」
CASUAL DAYS → 街の人が口を揃えて薦める「町家への入口」