きっかけは、半年ほど前に耳にした「本物の地歌舞伎を、現地で見に行こう」という熱っぽい企画だった。かつて住んでいたシェアハウスの仲間たちの間で盛り上がっているというその旅に加わり、向かうことになった、2月の山形。
行き先は、山形県酒田市。目的は、享保年間から続く「黒森歌舞伎」を見ることだ。正直に言うと、どこか「地方の素朴な地域のお祭り」というイメージで、気楽に構えていた。
フードコートで受けた、この街の「当たり前」の衝撃
歌舞伎の前日、お昼過ぎに酒田に入り、まず本間家旧本邸へ向かった。その後、山居倉庫のケヤキ並木を歩く。蔵の静けさの中で米どころの豊かさに浸っているうちに、いつしかあたりは夕刻の気配に包まれていた。
0次会は、酒田港の複合施設「SAKANTO」へ。他のテーブルに並ぶ豪華な刺身盛りに、思わず目が釘付けになった。鮮魚店「鮮活 喰で!!」に前日予約した人だけが味わえるという、大トロやウニの圧倒的な輝き。私たちもそこで注文したのだがどの料理も、驚くほど新鮮で安い。その旨さに感動しつつも、心は決まった。「次は必ず、あの大皿を予約して来よう」。酒田の豪快な洗礼に、早くも圧倒された。
そして予約をしていた郷土料理の店「旬味 井筒」へ。個室に通してもらうと、用意されていた器と料理の佇まいに、また驚いた。居酒屋というよりは、しっとりと落ち着いた小料理屋。盛り付けの一つひとつが上品で、東北の港町という先入観が良い意味で裏切られるような、凛とした品格が漂っていた。
帰ってから調べて、その理由がわかった気がした。
「本間様には及びもせぬが」——5畳に生きた、日本一の大地主
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という俗謡がある。藩主より財を持ったとされた豪商・本間家が、かつてこの街の中心にいた。
酒田は北前船の一大寄港地だった。最上川の河口から庄内の米・紅花を積み出し、京都・大阪へ。帰りの船には「バラスト(重石)」として各地の名石を積んで戻る——だから本間家の庭には全国の銘石が集まり、帰り船が運んだ京友禅・雛人形・舞妓文化・料亭の様式が、そのまま酒田の「当たり前」になった。民謡「酒田甚句」に関西弁まじりの歌詞が残っているのも、そのせいだ。
本間家旧本邸を見学すると、まず幕府巡見使を迎えるための豪壮な武家造りの部屋が目に入る。
でも。
光丘自身が暮らしていた部屋を教えていただくと、屋敷の北西の隅に、たった5畳の空間があるだけだった。日本一の土地を持ちながら、一番質素な場所に住んでいた。
玄関先の「門かぶりの松」。枝が地面すれすれにまで這わされた、珍しい形の松。「奢り高ぶらず、常に低姿勢でいなさい」——本間家が代々守ってきた家訓の象徴だという。
光丘は言ったそうだ。「有るところの物は無いところへ、無いところには有るところから」。大飢饉には米を出し、洪水には私財を投じて治水を行い、防砂林を西浜に造成した。上杉鷹山の財政再建にも関わった。商人でありながら「士分格」を得た人間だ。
先に説明したフードコートでの刺身の豪華さ、居酒屋の個室に漂う気品——「本物を大切にする」という感覚が、この街の空気に溶けている。光丘がこの街に残したのは、蔵や松原だけではないのかもしれない。
黒森歌舞伎——幕が開いた瞬間、先入観は崩された
翌朝、黒森地区の日枝神社へ。「雪中芝居」の異名を持つこの祭り、完全装備で臨んだのだが——今年は2月とは思えないほどの快晴で、拍子抜けするほど穏やかな観劇日和だった。境内に張り巡らされた本格的な幔幕と緞帳を目にした瞬間、「地方の素朴な地域のお祭り」という先入観は、静かに揺らいだ。
幕が開いた。
衣装の鮮やかさ、足の運び、見得を切る瞬間の静寂——。息を呑んだ。プロではない。地元の方々が演じているはずなのに、圧倒される。

「妻堂連中(さいどうれんちゅう)」という一座が、この舞台を担っている。江戸時代中期に農閑期の農民が始め、約290年、途絶えることなく続く奉納歌舞伎だ。役者・大道具・衣装・音響・出店まで、約40名が関わる。7歳の子役から90歳の裏方まで——この街全体が「製作者」だ。役者は男性のみという伝統が今も守られ、女方(おんながた)も男性が演じる。
この日一日の演目は、想像以上に重厚だった。朝の神事・神楽・少年太鼓から始まり、黒森小学校の子どもたちによる「少年歌舞伎」へ。演じるのは「白波五人男」——稲瀬川、稲村崎、鎌倉……台詞の中に、鎌倉在住の私には馴染みのある地名が次々と出てきて、山形で突然、自分の街と繋がるような奇妙な感覚を味わった。
そして本狂言は「加賀見山旧錦絵」。忠義の腰元・お初が悪女・岩藤を討ち果たす、「女版忠臣蔵」とも呼ばれる演目で、実に平成17年以来の上演だという。4場にわたって演じられ、夕方まで続いた。

本格的な緞帳が場面ごとに下りるたびに、奥からカンコンカンコンと音がする。大道具さんが次の舞台をハンマーで組み立てている音だ。その間、観客は境内の出店へ。豚汁、おでん、お蕎麦、甘酒——どれもお手頃で、湯気の漂う中、みんなでまったりと時間を過ごす。次の幕が開く頃には、また席に戻る。この繰り返しが、一日かけてゆっくりと続く。

演じる側も観る側も、同じ境内に一緒にいる。これは「鑑賞」ではなく、「参加」だ。
公演後の直会(なおらい)に参加させてもらった。役者も裏方も関係なく、全員が車座になっている。隣に座った方を見て、ふと気づいた——さっきまで舞台で見得を切っていた人が、にこにこしながらお酒を注いでいる。あの研ぎ澄まされた顔と、この柔らかい笑顔が同じ人間だとわかるまでに、少し時間がかかった。
「今年の出来はどうだった!」「あそこは最高だった!」
笑い声と興奮が混ざり合う空間に、しばらく言葉を失った。あの顔は「伝統を守り抜いた達成感」ではなかった。「今年の俺たちの舞台をやり切った充実感」だった。
「伝統が続くのは、地元の誇りがあるから」——そう言われることが多い。でも、順番は逆ではないか。
誇りがあるから続くのではない。続けてやり遂げるから、誇りが生まれる。
参加できる役割が多いほど、誇りを持てる人が増える。役者だけなら、290年は続かなかった。
一つ、静かなエピソードを聞いた。一昨年まで主役だった方が、裏方・演出監督に転身した。すると、舞台全体のクオリティが上がったという。「舞台を降りた人が、舞台をより美しくした」。それはそのまま、次の誰かが役を担える機会が生まれた、ということでもある。

「やりたい」という熱狂を、どう繋いでいくか
さきほど目にした少年歌舞伎は、単なる「子どもの出し物」ではなかった。黒森小学校の4〜6年生が毎年役者として舞台に立ち、「歌舞伎って楽しい」という体験を身につける。やがて大人になった子どもたちが妻堂連中へ加わっていく——この地域が長年育ててきた後継者育成の仕組みだ。少年歌舞伎の初期の参加者の中には、大人になって役者として活動している人もいるという。
その黒森小学校が、2028年度に十坂小学校へ統合される予定だという。4校が一つになる大きな再編だ。
統合後の学校で少年歌舞伎がどう続いていくのか、旅人の私には知る由もないが、あの子どもたちの真剣な顔が、ふと頭をよぎった。
出羽三山——1400年の祈りが、息づく山へ
翌日は鶴岡市へ。出羽三山の一つ、羽黒山へ向かった。
2446段の参道の石段——せっかくだから登ろうと気軽に考えていたのだが、2月の羽黒山は毎年雪に覆われる。知らなかった。登れないわけではないが、冬用の登山装備が必要らしい。今回はバスで山頂まで向かった。次に来るときは、石段を一段一段、自分の足で踏みしめて登りたい。
社殿は圧倒的に大きく、入り口には梵鐘が吊るされ、内側にはお寺の空気が漂っている。ここに1400年間、人々が祈りに来ていたのか——と思うと、ただ立っているだけで、何かが胸に迫ってきた。
帰ってから調べると、歴史がそのわけを教えてくれた。
出羽三山は6世紀末の開山以来、神道と仏教が溶け合った「神仏習合」の修験道の聖地だ。羽黒山は現世、月山は前世、湯殿山は来世——三山を巡れば「生まれかわれる」と信じられてきた。
明治になると、政府が「神仏分離令」を出した。僧侶は追い出され、仏像・寺院は撤去せよ、と。さらに修験道という宗派そのものも廃止された。山伏たちは「半僧半俗(僧でも俗人でもない独自の立場)」として生きてきたが、その立場も制度上は消えた。
そのとき、酒田の佐藤泰太良が動いた。羽黒山から下ろされた243体の仏像を私財で買い集め、屋敷に安置堂を建てて守ったのだ。昭和49年(1974年)、子孫の佐藤完司氏が出羽三山神社に奉納。中には山形県指定文化財となった平安後期作の仏像も含まれる。
その仏像たちは今、神社の宝物殿に展示されている。見た瞬間、息をのんだ。これほど荘厳で、これほど見応えがあるとは思っていなかった。一人の個人が守ったものが、ここにある。
そしてこの山には今も、人が来る。修験道の山伏たちが、1400年前と変わらない形で、滝に打たれ、山を駆け、法螺貝を吹く。この旅に誘ってくれたシェアハウスのオーナーの旦那さんも、定期的に修行に来ている山伏のひとりだ。
「守る」ではなく「選び続ける」。その重なりが歴史になる
黒森歌舞伎と出羽三山は、「続いてきた理由」がまるで逆だ。黒森歌舞伎は、人が毎年能動的に「作る」から続く。誰かがやめれば止まる。出羽三山は、山が動かないから人が来る。弾圧されても制度が消えても、山はそこにある。能動と受動。熱量と引力。
でも、どちらも「途絶えそうになる局面」には負けなかった。
出羽三山は、国家という大きな外部の力(神仏分離・弾圧)に。そして黒森歌舞伎は、時代の変化や少子化という避けがたい波(学校の統合)に。
なぜか。
続いているものの底には、必ず「選び続ける人」がいる。
出羽三山に来る人も、黒森歌舞伎を作る人も、みな「それを続けることを選んだ」人たちだ。
本間光丘もそうだった。日本一の富を持ちながら「奢らない」を選び、地域に還すことを選び続けた。その選択の積み重ねが、この街の空気になった。
刺身の豪華さ、場の気品、農村歌舞伎の本気——酒田には「豊かさを奢りに変えなかった選択」が、街の隅々まで染み込んでいる気がした。
旅は終わる。でも「選び続ける人」の話は、まだ続いている。
【今回の見立て帖:山形・酒田】
酒田の街 → 「商いで得た富を、文化に変えた北の心臓」
本間光丘の5畳 → 「富の頂点で、最も質素に生きるための聖域」
門かぶりの松 → 「奢りを戒め、低姿勢を説き続ける家訓」
黒森歌舞伎の直会 → 「今年の『本気』をやり遂げた者だけが味わえる、最高のご褒美」
展示された仏像たち → 「個人の執念が、時代の圧力から救い出した歴史」